対人恐怖症で悩んでいる人は世間一般の基準で自分を見ています。

自分は普通なのか、みんなと比べてどうなのか。

「別に人と違っていてもいいじゃん」というのが最近の風潮ですが、みんなと違う普通ではない自分が受け入れられない。

たしかに社会に適応していくために最低限合わせる必要はあります。

しかし、ある程度他人との違いがあっても問題はなく、支障をきたすほどにはなりません。

なぜそこまで必死に世間の目を気にして普通であろうとするのか。

背景には日本における村社会特有の問題があったのです。

世間は人の生死を左右するほどの力を持っていた

昔の日本は村社会で「世間」が絶対的な力を持っていました。

村単位で農家の人たちが助け合うことで生活できていたわけですからね。

世間に従わないことはご法度であり、従わない人は村八分という極端な仲間はずれをされていました。

村八分にされると火事と葬式以外は誰も協力してくれない孤立状態になるから生きていけない。

つまり、生きていく上で世間に従うことは絶対だったわけです。

年配の方や田舎の人たちがよく口にする世間体はここからきています。

世間体を気にして生活することが自分の生死にかかわるほど重要という感覚なんですよね。

都心に住む若い人は「世間」に馴染みがないかもしれませんが、日本の文化に根付く世間への恐怖は遺伝子レベルで受け継がれています。

個人と社会が壊しきれずに残った世間

絶対的な力を持つ世間でしたが、明治維新で西洋の「個人と社会」という概念が取り入れられたところから壊れていきます。

対人恐怖症の根源には <人に好かれ,よく思われなければならぬ〉という「配慮的要請」と, <人に優越しなければならぬ〉という「自己主張的要請」との矛盾対立があると指摘している。そしてこの背景には,イエを原型とするような日本文化の配慮的性格の上に,明治以降の近代化による競争原理(自己主張的要請)が侵入してきた時代状況があったのだという。

引用元:対人的コミュニケーションとしての対人恐怖:共同体と怒り、2001、北海道大学大学院教育学研究科紀要

しかし、アメリカのようにキリスト教が根付いているわけでもなく、多神教である日本は個人と社会が定着しないまま世間にすがる形となりました。

年功序列や終身雇用制度の崩壊で世間はどんどん壊れているのですが、田舎や学校といった集団を中心に世間が根強く残っているからややこしいわけです。

時代の流れは「個人と社会」のはずなのに、実態としては「世間」がまだまだ残っている。

芸能人の謝罪会見とかではいまだに「世間の皆様に…」という言葉が使われていますよね。

壊れかけた世間はそのまま世間として現れることもあれば、今の時代でいうところの「空気」として現れることもあるのです。

空気という名の世間に怖さを感じている

村社会にあった世間は明確だったのに対して、壊れかけた世間である空気は曖昧。しかも、世間のように従いさえすれば面倒を見てもらえる保障もありません。

名前の通り移ろいやすく不安定な「空気」を読んで周りと上手くやっていかないといけない。

だから、波風立てないように周りに合わせて自分を出さず、孤立だけはしたくないからと大して仲良くもない友達?(友達未満)と一緒に過ごしたりする人が増えました。

同じような服装や髪型で常に誰かと一緒にいるような人たちも実は怖がっています。

「空気が読めない」「発達障害」という言葉に過剰反応、「あいつは空気が読めていない」なんていう批判も恐れている証拠。

曖昧な空気を読むのは難しく従っていれば安泰というわけでもない、どこか安心できないコミュニケーションの中に怖さが生じるわけです。

日本人が人とのかかわりに怖さを抱えているのは、太宰治の「人間失格」が累計発行部数670万部以上を突破したこと、「嫌われる勇気」がベストセラーになったことからも証明されています。

空気を含めた「世間」を肌で感じているからこそ、人間失格で描かれた「人間恐怖」の感覚が理解できてしまうんですよね。