幼少期

奈良県天理市にて3人兄弟(弟2人)の長男として生を受ける。

生まれてすぐの頃から音に非常に敏感で、襖(ふすま)を閉める音で泣くほどの状態だったそうです。

においにも敏感で祖父が抱っこしてくれたときにわずかな口臭を指摘したり、車の芳香剤のにおいで気分が悪くなったり、父親のたばこを毛嫌いしてイライラすることも多々ありました。

冗談を真に受けてしまうことから面白がってよくからかわれることも。

小さい子が喜ぶはずの「高い高い」を怖がるほどの怖がりで、初めてやることに対して危険を感じたら「できない」と言ってやる前から諦める。

母親への依存が激しく、保育園に行くときも毎日のように泣き続けてかなり手がかかったと聞いています。

生まれてすぐ黄疸が出たり、上手く排泄ができなかったり、なかなか歩けなかったり、病弱で不器用だったことから常に心配され過保護にされました。

初孫ということもあってよく面倒を見てもらっていた母方の祖父母に甘やかされ、わがままを言うことが多かったです。

当時好きだったアニメは、キン肉マン、ドラゴンボール、Dr.スランプアラレちゃんなど…フランダースの犬を見て泣いたりと感受性の高い子供でした。

弟ができた頃から「お兄ちゃん」としての役割を求められ、甘えることができなかった影響で自分の髪の毛を触ることと指を吸うこと、爪を噛むクセがなかなか抜けず。

指を吸いすぎてタコができるほど何度言われても直らなかったクセが、指に大きなコブのある親戚のおじさんに「ずっと吸ってたら同じようになるぞ」と言われてすぐ直ったのは印象的でした。

私にとって「不安」が行動を左右する大事な役割を担っているのは今も変わりません。

両親が毎日のように喧嘩をしていた影響や、父親を頼りないと思っていたことから「長男として自分がしっかりしなければ」という責任感は常にあったと思います。

祖父母が奄美大島出身ということで親戚付き合いが多く、人とかかわる機会は多かったのですが慣れることはありませんでした。

「おじさんのこと知ってるか?」と聞かれてうなずくだけだった場面が印象に残っています。

保育園での様子

保育園に行っても人見知りをする性格であったため、誰とも話せずにいつも一人で行動していました。一人で砂場で遊んでいることが多かったです。

注射の順番待ちをしているときに怖くて泣いていて、近くにいた女の子に慰めてもらった記憶があります。

運動が得意ではなかったので竹馬や一輪車は当然乗れず、走るのも遅い。補助輪なしの自転車に乗れるようになったのが小学校高学年のときであったことが何よりの証拠ともいえます。

当時、幼いながらも私が感じていた劣等感は、「人より運動ができない、人より動作が遅い、怖がり」といったことでした。

自分ができないのをわかっていたからゲームでも弟のサポート的な役割、ゴーカートに乗るときも運転の上手い子の隣に乗る。自分がメインでやるのを避けてばかりだったので、自分がやらないといけないときはすごく困りました。

少しでも上手くできないことがあるとイライラして泣き出してしまう。途中まで組み立てたものを壊したり、投げつけたり、グチャグチャにすることもあったので母親に似てヒステリックなところがあったのだと思います。

結局、保育園では友達ができず、先生からはいつも心配される存在でしたが、余計なことをして怒られるという面もありました。

他の子が静かに寝入っているお昼寝の時間に一人だけ起きてカレンダーを見に行ったり、輪を乱す行動をしていたことから先生に叩かれていた記憶もあります。

寂しさでかまって欲しい気持ちとみんなと同じことをするのが嫌という性質(エニアグラムタイプ4)が影響していたのでしょう。

弟が当選した懸賞の宛名を書き換えて自分の物にしようとしたり、マッチの火をつけることにハマって祖父母の家に火をつけようとしたこともあったり、問題行動を起こすこともありました。

2歳以前の体験

明確に記憶があるわけではないのですが、1~2歳くらいの間に大変な思いをした感覚が残っています。

私はしゃべるのは早く、歩くのは遅くて「しゃべりはするけど歩けなかった」と母親や祖父母からよく聞かされていました。

母親は過度な心配性であり、祖父母にとって初孫だった私はものすごく心配されていたのだと思います。

物心ついてから歩行器を見て感じたのは、懐かしさではなくどこか嫌な、複雑な感覚でした。

憶測になりますが、私が歩けないと母や祖父母は悲しみ、少しでも歩けると露骨に喜び、そして、なかなか歩けない様子を見ながら「なぜこの子は歩けないのだろう」と心配の目で見られる日々を過ごしていたような気がします。

歩けない私にとって歩くということは非常に困難なこと。しかし、乗り越えなければ母親や祖父母の期待に応えられない、失望させてしまうという恐怖が強くあったのかもしれません。

大人になって今もなお、自分の限界を超えてでも相手の期待に応えなければと思う原点はここではないかと思っています。

アレクサンダーテクニークのレッスンで歩くことが多く、その経験の中でふと自分がなかなか歩けなかったことを思い出し、過去の体験を思い出すことにつながりました。

記憶には残っていなくても身体に刻まれた感覚は残っているのです。

小学校時代

低学年(1~3年生)

引っ越したことによって校区が変わったので、知らない人ばかりの小学校に入学。

奈良の田舎で当時は田んぼばかりの地域でしたから、ガキ大将のような存在もいて運動ができる男子がもてはやされるという私にとってものすごく苦痛な環境になっていました。

人より動作が遅く運動ができない怖がりの私は、いじめの標的にされて毎日泣きながら過ごしていました。

後ろから急に突き飛ばされたり、石を投げられたり、図書室で怖い本を見せられたり…

歩けるようになるのが遅かった影響もあったのかもしれませんが、よくこけて怪我をして泣きながら保健室に何度も通っていたことを覚えています。

当時、私は何のとりえもないと思っていましたので、自画像を描くのがすごく嫌で泣きながら先生になだめられて何とか描いたという出来事もありました。

女性の先生が泣きながら教室を飛び出した私を鏡の前に連れて行って「男前やん」と言ってくれたのを今でもハッキリ覚えています。

ドラゴンクエストの冒険をしているような感覚で中庭に行ったり、嵐の日に校庭を歩き回ったり、棒を探して武器にして虫と戦ったり、妄想の中で一人遊びをするようなところもありました。

1、2年の頃に日記を書く宿題があったのですが、「おじいちゃんの家に行きました。楽しかったです」という感じの内容しか書けず、先生に指摘されてやり直しはしたものの「出来事+一言コメント」を2つ、3つ書くことしかできませんでした。

班やグループを決めることや、ドッジボールなどのスポーツをするためにチームを決めるときにやる「はないちもんめ」は私にとって地獄でした。最後に私が残った時の周りの残念がる反応が居たたまれなかったのです。

また、遠足などでお弁当を食べるときに一人になっていつも誰かに同情で一緒に食べてもらうのが恥ずかしくて情けなくて仕方ありませんでした。

同級生の誕生日会に誘われて参加することになったのは良かったものの、プレゼントを決めきれず母親に聞きながらパズルを選んだのを覚えています。自分で決めることができなかったのです。

リコーダーや家庭科の裁縫、図工の制作など、何をやっても時間がかかるのでいつも一人だけ居残りでやっていました。

放課後の夕暮れ時、いつもと違う教室で泣きながら先生とマンツーマンでリコーダーを吹いていた場面は今でも当時の感覚と共によみがえってきます。

図工で何かを作るとなってもなかなかアイディアが思いつかず、周りが取り掛かっている中で自分だけ何を作ればいいか悩んでいることは多かったです。

夏休みの宿題はいつも後回しで最終日にまとめてやる形、答えを見ながらやるズルさもありました。読書感想文は何を書いていいかわからずあらすじを書き写してコメントするみたいなやり方しかできませんでした。

高学年(4~6年生)

4年のときは一人の子に依存するような形になっていつも一緒にいて悪いこともやりました。

自由時間でみんなが辞書を引いたりしている時間に騒いで、誰かに「うるさい、だまれ」と言われて激怒。

「しゃべるなって言うなら呼吸もするなってことやんな」と極端に捉えて息苦しくなって泣く。当時は面倒くさい奴だったなと自分でも思います。

ゲームをエサに同級生を何人も家に呼んだことがあったのですが、素行の悪い子ばかりで家がめちゃくちゃになって親に怒られました。

自分を好きになってもらえる自信がなかったので、仲良くなればゲームができるということで友達を作ろうとしたのです。

掃除をする同じグループの子が問題を起こしたとき、自分は真面目に掃除していたのをアピールして巻き込まれないようにしたのも覚えています。

自己中心的で自分を守ることに必死だったのです。

母方の祖父母が小さな町工場を経営していることは自慢でした。

一度仲良くなった同級生に見せようと連れて行ったことがあったのですが、障害のある伯父を見られるのが嫌で祖父母に隠してくれと頼んだのを覚えています。

伯父は後天的な知的障害で知能が5才のまま止まっている状態でしたが、私に箸の持ち方を教えてくれたり、一緒に遊んだりしたこともあって、そんな伯父を隠そうとした自分は本当に最低な人間でした。

なぜあのとき堂々と伯父を紹介できなかったのか、考えてみると一緒に出歩いたときの世間の目があったのだと思います。ドラマ「1リットルの涙」に出てくる弘樹君を見たとき「ああ、自分と同じだな」と思って涙が止まりませんでした。

5、6年のときに担任になった先生が母親の同級生ということもあって、体罰やセクハラを平然とする問題教師だったにもかかわらず良い先生扱い。

家庭訪問のとき隣にいる母親に「どんどん厳しくしてやってください」と言われたときの恐怖と絶望感はいまだ忘れることができません。

一人でも体操服を忘れたら体育がなくなるというときに体操服を忘れて、運動が得意なガタイのいいクラスメイトに責め立てられたことがありました。でも、実際は母親がランドセルに入れてくれていたのを知らなかっただけで忘れてはいなかったのです。

責め立てられて泣きながらランドセルを開けたら体操服が出てきて…その瞬間「忘れてないのに何でここまで責められなあかんかったんや!」とキレてしまい、なだめに来た担任に椅子を持ち上げて投げつけようとしたことは後々まで語り継がれました。

家や学校で普段から感情を押し殺していた分、キレてしまうまでになったのだと思います。

転勤先の学校で事件を起こすような問題のある担任ではありましたが、やる前から「できない」と回避するクセを無理やりでも改善してくれたことには感謝しています。

そんな私でしたが、一応仲間に入れてもらえていましたので完全に仲間はずれにされることはありませんでした。

これは田舎の良い風習だったのかなと思っていますが、対等の関係ではなくいつも相手が上、自分が下という上下の関係だったので友達はできないまま。

恋愛

自分より背が高く、いじめから守ってくれる女の子がいて、1年の頃から6年までずっと好きでした。

6年のとき人伝で「春生まれの男子が好きらしい」と聞いて喜んだのも束の間、すぐ違う男子だとわかってショックを受けたのを覚えています。

今思えばあんなに情けない自分を好きになってくれると思えていたのが不思議ですが。

毎年バレンタインデーは当然女子からチョコをもらえることがなく、いくつももらっていた同級生、弟を羨ましく思っていました。

ある年に近所の年上の女子からバレンタインデーにチョコレートをもらったことがあります。

もらえたこと自体は嬉しかったのですが、明らかに私を憐み、可哀想に思ってという感じだったので複雑な気持ちになりました。

耳たぶを触られたり、性的なことを言ってからかわれたり、女子から玩具のような扱いを受けていたので、好きになる対象ではなかったのだと思います。

習い事

習い事は習字とそろばん、少年野球、剣道をやっていました。

野球はしんどかったのとコーチがアイスを配ってくれて嬉しかった記憶くらいしかありません。数ヶ月くらいしかやっていなかったのではないかという印象です。

習字だけ6年まで全うしたのですが、他はどれも続かなくて母親によく怒られたのを覚えています。

とくに剣道は近所の先輩に憧れて自分からやりたいと言ったにもかかわらず、熱い、痛い、しんどいといった理由ですぐ根を上げてしまい、やめたいと屁理屈ばかりこねる私を母親が黙らせようと口をふさいだことがキッカケで過呼吸に。

そろばんは「暗算の方が速いやん」とバカにして頑張らず、サボることを正当化して先生に嫌がられていました。

放課後残って教えてくれる子がいたにもかかわらず最後まで逆上がりができなかったり、何かを頑張って最後まで成し遂げることがなかなかできませんでした。

中学時代

1年生

学年で40人しかいない小学校から中学校に入ったので、知らない人ばかりの環境で慣れるまで時間がかかりました。

学校は基本的に嫌いだったので朝ギリギリに起きて遅刻寸前でなんとか間に合う日々。自転車通学だったため荷台に学生カバンを括り付けないといけなかったのですが、不器用なのでなかなか上手くできず困ったのを覚えています。

入学してすぐの頃に係りを決める話し合いがあり、何の係りだったか覚えていないのですがどうしてもやりたい係りがありました。

定員が2人だったので仲良しの女子2人が一緒にやろうと話していて、周りもその女子がやればいいという雰囲気になっていたのですが、私にはそれがわからなかったのです。

自分がやりたいからと割って入り、じゃんけんにも勝ってしまったため、最終的にそのうちの1人と私が同じ係りになってしまいました。

当然のことながら相手の女子からすれば、仲良しの子と一緒にやろうとしたのを邪魔してきた相手と一緒にやるわけですからめちゃくちゃ不機嫌です。

本当なら協力してやることもやってもらえず1人でやらないといけないことになりました。

振り返ってみるとこの頃から空気が読めない傾向は出ていたなと思います。

最初に仲良くなったのは出席番号が一つ前の子で、身体に障害のある一つ後ろの子とも仲良くなり、同じ小学校だった子と4人で行動することが増えました。

しかし、やはりここでも小学校のときと同じで、同じ小学校だった子が上、自分ともう1人がその下、障害のある子が一番下という上下関係に。

自分より下の存在ができたことで見下すような態度を取ったり、ときに馬鹿にするようなこともありましたが、障害のある子がバスケ部だったこともあって劣等感を抱いていたのも覚えています。

私も剣道部に入ってはいたものの、バスケ部やサッカー部のような花形ではなく、自分ができないスポーツをやっているというのが自分にとってすごく大きいことだったのです。

同じ塾に通っていた子がたまたま剣道部でめちゃくちゃ強く、逆に私はすごく弱かったので劣等感を抱いていました。

勉強もできる子だったので勉強だけは負けないようにとライバル視していたのを覚えています。

小学校が同じだった子も剣道部にいて結構強かったので、負けるのが嫌でおなかを壊したふりをしてトイレにこもったこともありました。たしかすぐバレて「逃げるな、卑怯者」といった内容のことを言われたと思います。

部活でもいじられキャラで楽しんでいたのですが「焼肉屋の社長」という設定にされたのは意味不明でした(苦笑)

一人だけいじりではなくイジメをしてくる人もいて、当時ガリガリだった私に「難民」というあだ名をつけられたことがあります。人を馬鹿にして見下しきった顔は今でも目に焼きついています。

1年の担任が数学の先生だったことも影響してか、最初の実力テストで100点を取り先生のお気に入りに。塾に通っていたこともあって、数学、国語、英語の3教科は点数が良く評価されていました。

林間合宿ではキャンプファイヤーで盛り上がり、「こげよマイケル」をスタッフのお兄さんと一緒に大声で歌っていた記憶があります。

自分では仲良くなったつもりが、翌日そのお兄さんと顔を合わせたとき、無視されるような感じで冷たくされたのはすごくショックでした。

他の明るい子には同じようにテンション高くかかわるのに、自分のような暗い人間に対する態度は違うんだと差を感じた出来事です。

2年生

2年は学生生活の中で一番楽しかった時期だったのを覚えています。

勉強ができて、新しい友達ができて、班で一緒になった女子とも仲良くなったり…

友達に誘われて自転車で出かけることもありました。

たしか京都の遠足だったと思うのですが、一番楽しい時期で行きたくて仕方なかったのに体調を崩して行けなかったのがずっと記憶に残っています。

集団行動が嫌いな私が学生時代に行きたいと思った遠足は唯一これだけだったと思います。

順調だったはずの学生生活が声変わりによってガラッと変わりました。

自分の声にコンプレックスを持ったことで次第に声を出すことができなくなり、音楽の時間の歌うテストでも、人前で声を出すことができず先生に怒られる状態に…

声変わりをするまでは音楽の授業で歌うとき一番大きな声を出し、高い声が出ることでみんなから注目を浴びることもありました。

女子みたいに高い声が出ることに恥ずかしさを感じながらも、どこか優越感を抱いているところもあった感じです。

歌うことが好きで家族とのカラオケも楽しみでしたが、声変わりをして初めて行ったカラオケで裏声が出せず、その様子を見た母親がキーと音量を必死に下げてコンプレックスが強化。

自分の声が気持ち悪いとしか思えず、音声を変えて映し出されている犯罪者と同じ声が出ている感覚になっていました。

3年生

3年は暗黒時代の始まりでした。

担任の勘違いによって2年のとき仲良かった友達と引き離されてなぜか苦手な子と一緒にされる。

誰とも話せなくなったことでクラスで孤立。最初は2年のときに仲良かった子がいる別のクラスに行っていましたが、その子にも別の友達ができてくるとなかなか行きづらくなってきます。

バスケ部の主将でルックスも良くて人気者の同級生の名前が私と同じ「こうすけ」。

月とすっぽんのような相手とただ名前が同じというだけで比較されたのはつらかったです。元プロ野球選手の高橋由伸さんに似ていたので見るたび今でも思い出します。

そんな自分にもかまってくれる子が数人いて、クラスでも人気者だった卓球部の子が話しかけてくれて輪に入れようとしてくれました。

声を発しない私に質問を投げかけてリアクションを引き出すことでキャラを確立させてくれたのです。

このリアクションで高校時代を乗り切ることになるとは思ってもいませんでしたが…

「シーソーゲーム歌えるん?」と聞かれてうなずいたことで、すごく驚かれて一目置かれたのが記憶に残っています。でも、本当は声変わりをして上手く歌えなくなっていたから嘘だったんですけどね。

このとき嘘をついたことはずっと引っかかっていて、裏声でちゃんとシーソーゲームを歌えるようにならないといけない、嘘を本当にしないといけないという思いはずっとありました。(数年前からヒトカラで練習したことで今は本当に歌えるようになっています。)

卒業文集の寄せ書きに私が書いたのは「半死に」。

生気なくリアクションをとる私にみんなが書いて欲しいと言ってきた言葉です。

どんな形であれ、いじられて面白がられてでも輪に入れるのは救いでした。

ずっとスポーツ刈りだった髪を伸ばし始めたのは3年の最後の学期。周りの目を意識するようになったからこその変化だったと思います。

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クラスで人気のある可愛い女子がいいなと思うくらいで好きになるまではなかったと記憶しています。

二年のときは女子と仲良く話していましたが、好きになることはありませんでした。

まだ小学校の頃に好きだった子を思い続けていたのかもしれません。

付き合っている子が少なく、好奇の目で見られる環境だったことも影響していたと思います。

高校時代

高校に入る頃には、本格的に対人恐怖症になっていましたので、毎朝通学時には駅のトイレで下痢とおう吐を繰り返して、緊張のあまり急に意識を失って保健室に運ばれることも何度かありました。

また、周りの目が気になりすぎて学校の売店でパンを買うことはおろか、人通りが少ない場所でも自動販売機でジュースを買うことすらできませんでした。(他者視線恐怖症

正直そんなしんどい思いをしてまで学校なんて行きたくなかったのですが、親に連れられて病院(精神科ではない所)に行って精密検査をしても異常が出なかったことと、親の影響で世間の目を意識しすぎていたため不登校という選択ができなかったことから、そのまま学校に行かざるをえなかったのです。

当時、学校に勉強道具を置いておくこと(置き勉)をしてはいけないという固定観念に縛られていたため、片道20分の駅から学校までの坂道をずっと勉強道具一式を入れたかばんを肩にかけて歩きました。

結果的に背骨が曲がってしまい、今も定期的に整体に通わないといけない状態になっています。

高校時代と言えばまさに「青春」真っ只中。当然、周りのみんなは青春を謳歌して、バイトや恋愛、友人と馬鹿みたいに騒いで遊んだりしていました。

そんな充実したみんなを尻目に私は周りの目が気になって自動販売機でジュース1本買えない状態。人と話せない私にとって、恋愛なんて夢のまた夢でした。

教科書や体操服を忘れたとき、周りのみんなは他のクラスの人に借りてきて、先生もそれができるのが当たり前という感覚でしたので、それができない私にとっては本当につらかったです。

だから、忘れ物は絶対にしたくなかったのですが、不安や恐怖といった余計なことばかり考えていた当時の私には集中力がなく、どうしても忘れ物をしてしまって苦しむという悪循環を繰り返しました。

周りと比較して「なんて俺はダメなんだ!」と自分を責める気持ちが非常に強く、劣等感にさいなまれて「生きている価値がない」「こんな惨めな思いをするくらいなら死にたい」と常に思っていました。

「絶望」という言葉がその当時の私にはぴったりでしたね。

毎日、深夜まで起きてラジオ番組を聴きながら、テレビゲームをすることで現実逃避を繰り返し、自分に対してどうしようもない怒りがこみ上げて泣いた日もありました。

「親にも学校の人にも迷惑を掛けている俺が生きていていいのか?」と思うことも多く、その度にむなしい気持ちでいっぱいになっていました。生きていることが本当にむなしかったです…

koukoujidai当時の私は場面緘黙症にもなり、学校では声が出せない状態になっていましたので、先生からはクラスの輪を乱す厄介者として目をつけられて嫌がらせも受けていました。

クラスのみんなの前で起立させられて、「西橋、何かしゃべれよ。」と言われて赤面したまま立ちつくしたことは今でも記憶に残っています。

同級生にも運動音痴で話さない私を嫌う人がいて、わざと聞こえるように陰口を言われたりしていました。私が自分のクセ毛が嫌いで前髪を目の辺りまで伸ばしてまっすぐに揃えることにこだわっていた(こういう変なこだわりも対人恐怖症の症状の一種です)こともあり、あだ名は「つぶやきシロー」「オクレ兄さん」。

同じクラスの人から「あいつなんでいるんやろ?」とわざと聞こえるように言われたときは本当につらかったです…

卒業する頃には、みんなが嫌がった同窓会の幹事を推薦で押し付けられるという出来事もありました。

私が輪を乱す存在だったのは間違いありませんが、だからといっていじめていいということにはなりません。

先生を含めた集団での圧力は異を排除しようとする村社会の日本を象徴するものではないかと反発を覚えたのもこの時期からです。

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1年のときに小学校からずっと一緒だった女子が友達を紹介してくれたことがあります。

女性に興味が出てきた時期で嬉しかった反面、声が出せない状態だったのでどうすればいいのかと困りました。

結局、しゃべらないから仲良くもならず自然消滅した感じです。

2年の頃くらいから誰と誰が付き合ったという話を聞いたり、先輩がカップルで一緒に下校している様子を見たり…

青春を謳歌している人たちを見て気が狂いそうになるほど羨ましさを感じていました。

3年で初めて自分のことを好きになってくれる女子に出会っています。

周りが噂していて自分も何となく好意を感じ取っていたのですが、声が出せない自分をなぜ好きになってくれたのかは疑問でした。

当時の私には女性と付き合うということが現実的ではなく、嬉しい気持ちがありながらどこか避けてしまうところがあったのを覚えています。

専門学校時代

なんとか暗黒の高校時代を生き延びた私が進んだ先は親から勧められた専門学校でした。

祖父に「自分を変える」と宣言して専門学校へ入学したので、入ってすぐの頃は頑張ってクラスの人に話しかけに行ったのですが、友達はできず数ヶ月で結局また誰とも話せない自分に逆戻り。

同級生や弟に彼女ができていたので、母親から「まだ彼女できへんの?」「あんたはお見合い結婚しかないね。」と言われ続けて、余計に自分に自信がなくなっていきました。

将来への絶望感をひしひしと感じていたせいで、早く年寄りになって誰にも構われずに気楽な老後を過ごしたいと現実逃避する日々。

勉強面だけは何とか頑張って、全国トップの成績をあげることもあったのですが、会計士を目指すコースであったため、どんどん勉強が難しくなり、唯一心の拠り所にしていた勉強ができなくなってしまいました。

もう自分には何も良いところがない、このまま進んでもしんどいだけ…

「このまま人とまともに話せずに社会人になれたとして、お見合いで結婚できたとして、果たして俺は幸せなのか?それに、会計士になるという目標は自分で選んだわけじゃないし、勉強も難しいし学校生活も楽しくないからもうやめたい。」

身内から期待されていてその道に進むことは絶対だと思っていた私は、両親に泣きながらやめたいという意思を伝えたところ、「なぜ泣いているのか分からない」という不思議そうな表情で簡単に承諾してくれました。(たぶん、当時の私の気持ちは親には理解できなかったのだと思います。)

親のレールという他人基準から抜け出した瞬間でした。そして、「自分を変えたい、人と普通に話せるようになりたい、友達が欲しい、恋がしたい…」今まで心の底に押し込めていた感情があふれ出してきたのです。

実はこの決断をするにあたって乗り越えたことがあるのですが、非常にセンシティブな情報なので記載できません。

やめることに関しては親より専門学校の先生がなかなか納得してくれず、一人の先生からは「逃げるな」と言われ、もう一人の先生からは胸ぐらをつかまれて服を破られるようなこともありました。

進路を変えるとき周りの大人は知ったような口でよく「逃げるな」と言います。

自分が本音で進もうとしている方向から逃げるのはよくない部分もありますが、他人基準で進んできた道を諦めるのはまったく問題ありません。

惑わされず自分の意志を貫くことができたのはよかったと思っています。

前向きな気持ちになれた背景には一人のアーティスト「中島卓偉」さんとの出会いがありました。

とくにファーストアルバム「NUCLEAR SONIC PUNK」に入っている「UP TO DATE」という曲の影響は大きかったですね。

自分は特別な存在で決められた未来を壊していけるんだと。コンプレックスの塊で自信なんて無縁だった私に中島卓偉さんの曲は可能性を与えてくれたのです。

今でも根底に根付く揺らがない自信はここが起点となり経験が積み重なったことによるものと思っています。

「もし営業職に就けたら、自分を話さざるをえない状況に追い込めるのではないか?」と自分を変えたい一心で就職活動を頑張ったところ、運良く希望の「営業職」で採用してもらえることとなりました。

あがり症でしたので顔を真っ赤にして震えながら面接を受けていたのですが、頑張って必死に話す私を評価してくださったそうです。

就職先が決まり、初めて1か月以上の期間バイトをしたことで、そのバイト先で現在の妻と出逢うことができました。

運良く希望通り営業職として内定をもらい、初めて長期で働いたバイト先で彼女ができて…このときは「もう対人恐怖症とは無縁になるはず」そう信じてましたね。

社会人になってから

新卒で入った運送会社

その後、内定をもらった運送会社へ入社。合宿研修で「自分を変えよう!」と意を決して、今まで一度もやったことがないリーダーに立候補しました。

リーダーシップを執らざるをえない状況と軍隊並みの合宿研修という過酷な環境によって「人からどう思われているか」「どう見られているか」といったことを気にする余裕がなくなったことが功を奏して、当時の同僚とは普通に話せて、遊びに行けて、飲みに行けて、最高に楽しい日々を過ごすことができていました。

真面目に頑張る姿と歴代トップの営業成績が評価されて、常に最高ランクの評価をいただき、上司にもかわいがられて昇格も順調。

しかし、能力以上の評価をされていたことでプライドが高くなり、また、年功序列制度への不満から退職することとなったのです。

在籍時には、営業で9時~18時まで外回りをして、そのまま物流センターで商品の梱包、発送業務、配達まで行い深夜3時まで、日によっては明け方まで働く過酷な労働を半年以上経験したこともありました。

アットホームな職場で、かつ営業としても数字が上がって、結構うまくいっていたように思っていたのですが、当時も事務所に戻ると誰とも話せず孤立しがちでした。

先輩に呼び出されて「ずっと思っててどうしても言いたかったんやけど、西橋君ってハマジ(ちびまる子ちゃんに出てくるキャラクター)に似てるよね」と言われたり、上司からロバと呼ばれたり、見た目に関してはボロカスに言われることが多かったです。

不動産投資のベンチャー企業に転職

求人サイトでスカウトされて高歩合の投資不動産会社へ転職。

そこでは上司からのパワハラ、暴力が日常的にあり、契約に失敗した場合マンションを買い取るという誓約書に署名・捺印させられたこともありました。

長いときは5時間以上、立ったまま説教をされ続け、人格否定の暴言だけでなく、棒で突かれたり、靴で蹴られたりして痣だらけに。

その結果、対人恐怖症が悪化して、さらにうつ状態にまでなってしまいました。

毎日のように腹痛で遅刻しそうになりながら何とか出社していましたが、ストレスが胃にもダメージを与えていて逆流性食道炎の診断を受けています。

職場でいつも上司におびえていた為に、先輩から「おびえた小動物のようやな」と言われたり、社内で電話するときも「誰かに聞かれているのではないか」「変なことを言ったら怒られる」といったことを考えすぎて普通に話せなかったり、震えて声が出ない状態になったこともありました。

そんな日々のつらさから逃げ出したい一心でわずか10ヶ月で退職したのですが、1年満たずに辞めてしまったこと、対人恐怖症が悪化した上にうつ状態で、うまくコミュニケーションが取れなくなってしまっていたことから、転職先がまったく決まらず、引越しなどの日雇いバイトをしてなんとか収入を得ていました。

このときに妻の妊娠が発覚したために、妻の母からも怒られていたことを覚えています。

「夢を見るな、現実を見ろ」という言葉は今でも忘れられません。

たしかに当時は夢見がちだったと思いますが、それでも現実ばっかり見ていたら困難を乗り越えることはできなかったでしょう。

外資系の損害保険会社に転職

そんな中、外資系保険会社に拾ってもらうことで何とか転職することができました。

転職できたのは良かったのですが、対人恐怖症が悪化した状態でうつ状態でもありましたので、私はほとんど誰とも話をせずに自己流の営業手法で頑張ることになっていました。

給料の半分が固定で半分が歩合という半分自営業のような仕組みの中で働いていたにもかかわらず、定時に出社して定時に帰社して、まるで固定給がもらえるサラリーマンであるかのように過ごす日々。

チーム制になっていたため、チーム内のほとんどの人が交流を持っていたにもかかわらず、私だけが孤立していたような状態でした。

飲み会があっても参加せず、挨拶すらまともにできない状態で過ごしていたために100人近くがいるオフィスの中で一人孤立。

主に電話で営業をかけてアポイントを取り付けて訪問するスタイルだったのですが、電話で断られたり怒られたりしているのを周りの人に聞かれるのが怖くて、離れたブースで人に聞かれないように電話をすることが多かったです。

当然、そんな状態でしたから、電話でもまともに話せることが少ないのでアポイントは取れず、行ってもなかなか契約にはつながらないという状態で苦しみました。

会社でも同僚と話をできないどころか挨拶すらまともにできないような人間が、営業で他人と話して契約を取れるなんてありえない話ですよね(笑)

でも当時の私にはそれが分からずに、とうとう成績不振による解雇という最悪の事態にまで進んでしまったのです。

解雇される少し前の出来事でしたが、上司から解雇を防ぐために休日出勤をして営業を頑張ってみないかと言われ、一度だけ土曜日に出勤したことがありました。

そのとき、同じチームで優秀な成績を上げている人がたまたま出勤されていて私に声をかけてくれました。

そして、私に諭すように、「西ちゃんはいつも飲み会にも参加しないし、挨拶もしないよね。俺も挨拶してもらった記憶が無いくらいだし。難しいかもしれないけど話しやすい人とだけでいいから、付き合いしていくようにした方がいいよ。」とアドバイスをしてくださったのです。

その話を聞いたとき、ほぼ解雇が確定していましたので、私の自信は崩壊して精神的にもズタズタの状態でしたが心にしみるようにスッと入ってきて泣きそうになりました。それまでは上司の話でもかたくなに聞き入れなかったのですが、「その通りだな」と初めて感じて受け入れることができたのです。

その後、解雇はされたのですが、当時の上司が転職先を紹介してくださって、何とか失業を免れることができました。当時の上司には今でも頭が上がらないほど感謝をしています。

紹介していただいた保険代理店に転職

転職してから先輩からいただいたアドバイスの通り、転職先の同僚や上司と一緒に飲みに行ったり、今まで連絡を取っていなかった以前の職場の同僚で話しやすかった人と連絡をとって飲みに行ったりしました。

断られるのではという不安はすごく強くて勇気を振り絞ったのですが、会ってみたら「びっくりしたけど嬉しかった」と言ってもらえて本当に嬉しかったです。

そういう行動を繰り返していく中で、人との接し方、コミュニケーションの取り方を思い出すことができ、また新たにコミュニケーション能力を向上させることもできて人とのかかわりを持つことへの恐怖が次第に薄れていきました。

さらに、友達ができていく自分に自信を持てるようにもなっていきました。(この時にほぼ対人恐怖症を克服できた状態でした。)

しかし、紹介してもらった転職先は、上司と部下の関係が最悪で毎日喧嘩、新型うつ状態になっている人もいるような所だったので、ほぼ対人恐怖症を克服できていたにもかかわらず、上司と同僚から相談されるという板ばさみ状態でストレスが溜まりすぎて、ついに私自身も過呼吸で倒れてしまったのです。

心理学との出会い

毎日愚痴を聞きながら変わらない環境をどうすればよいか途方にくれていたとき、一冊の本と出会いました。

丸山先生の「つい心がかたくなになったとき読む本」でした。その本との出会いがきっかけとなって、日本メンタルヘルス協会で心理学を勉強することになったのです。

そして、心理学をどうやって実際の職場で活かせるかを何度も試しながら実践して、やっと自分の心のコントロールがうまくできるようになり、上司と同僚の仲を取り持つ役目を担えるようになったのです。

医者から90%以上成功しないと言われた娘の心臓の手術が成功。命の大切さ、今この一瞬を生きる大切さを実感するという貴重な経験もあった中で、昔から夢見ていた起業への思いがよみがえり、FP、社労士、行政書士などの勉強をして自分の本当にやりたいことを探す日々。

そして、「自分が苦しめられた心の問題で苦しむ方々の助けになれる仕事がしたい。」という思いから、カウンセラーとしての起業を決意するに至りました。

以上が私の対人恐怖症体験談です。

読んでいただいて気付かれたと思いますが、良くなったり悪くなったりを繰り返しながら克服へと向かっていく感じになります。この点に関しては、全員に共通していることです。

人によって対人恐怖症の内容も度合いも違うので参考にならないかもしれませんが、こういう克服の実例もあるんだなと思っていただけたらいいかなと思っています。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

西橋康介

人間関係の悩み専門カウンセリング(大阪)

研修やカウンセリングの体験記(一部)

カウンセラーになると決めてから様々な研修やカウンセリングを受けてきました。

初期の内容は日記にまとめていたので、残っている分をここに掲載しておきます。

カウンセラーとしての起業を決意したのが2010年、カウンセラーの仕事だけで生計を立てられるようになったのは2014年でした。

4年間は派遣や契約社員の仕事と並行しながら勉強や研修参加、カウンセリングをしていましたが、また機会があればそのあたりのことも書いていこうと思っています。

PCAワークショップ1回目

ロジャーズのPCA(人間中心療法)ワークショップに初めて参加してきました。

最初は参加者全員がお互いを感じあえるようにとディスカッションがありました。

特にお題も無かったのですが、よく話す人、全く話さず聞くだけの人、それぞれの個性が出て意外と成り立つものだなと感心しました。

カウンセラーとして活躍中の方、カウンセラーを目指されている方それぞれの活発な意見交換の中で、カウンセリングをしたい方とカウンセリングを受けたい方のコミュニティーがうまく接触できていないこと、実際カウンセラーを職業として生計を成り立たせるのは困難なこと…厳しい現実の話ばかりでした。

また、カウンセラーになりたい人の中でカウンセリングを受けた経験のある人がほとんどいないことも話題となり、確かにそうだろうなと思いました。

僕は今月からカウンセリングを受け始めましたが、自分がカウンセリングを受けることには抵抗がありました。

大丈夫になったはずの自分を見直す、第三者に何かを言われるのが怖かったような気がします。

でも、それを乗り越えてでも、カウンセラーが自分自身を知ることはすごく大切だと思います。

ラーメンを食べたことが無い人がやってるラーメン屋には行きたくないという例え話もありますし。

帰り道一緒になったカウンセラーの方の話の中で、『カウンセラーは自分自身を知ることで、クライアントさんに「寄り添う」力がついてくる。』という言葉がすごく印象的でした。

素晴らしい出逢いに感謝。

来週からはカウンセリングのロープレをするとのことでしたので、恥をかきに行ってきます。

PCAワークショップ2回目

昨日は2回目のPCA研修に行ってきました。

先週と同じく、また集まったメンバーで話をする形。

「えっ?今日はロープレじゃなかったっけ?」

結局ロープレせずじまいで終わりました。

みんなが話す内容はカウンセラーとして独立するのは難しいとか、やっぱり臨床心理士がないとダメとか…なんかマイナスの話ばかりで僕はうんざりしていました。

そんな中、一人の女性が居眠り…疲れてる中で来てこの話、余計に疲れたのかなと思っていました。

でも、実は話を聴かれていたのです。

頭ではなく心で。

その方を除いた全員は、それぞれの発言を頭で聴き解決策を提案したりしていました。

でも、その方はそれぞれがどういう思いで発言しているかを心で聴かれていました。

カウンセリングでもクライアントさんに解決策を提案するわけじゃなく、まずクライアントさんがどういう思いでいるかを感じながら寄り添うことが基本になります。

それが、非常に大事なことだと実感することができました。

ありがとうございます。

来週も良い気付きが得られると思いますので、楽しみにしています。

PCAワークショップ3回目

今日は3回目のPCAワークショップの日でした。

初めてロープレがあり、スピーチがあり新鮮でした。

スピーチは親の介護で苦労をされたスクールカウンセラーの女性の方。

カウンセラーになられた経緯、20年前と今の状況がたいして変わっていないこと、障害者施設、介護施設を見学されての現実を話されていました。

思っていた以上に介護や医療の現場が厳しく、現場を見られてきた話にただ感心するばかりでした。

ロープレは聴き手役の方の共感不足が指摘されていました。

僕も以前参加したワークショップで指摘されたことだったので真剣に聞いていました。

オウム返しや要約してのオウム返しが無いとクライアント役の方からして、ちゃんと伝わってるかが気になってしまうとのことでした。

「伝わってるよ」のサインをどこまでやるか判断が難しいです。

話は変わるのですが、今参加してるワークショップ、参加者はほとんどが僕の親以上の年齢です。

「そのままの自分を受け入れられるようになったのは年の功かな。」

と言われていたのを聞いて、確かにそういうこともあるだろうなと思いました。

僕も見習って素敵な年の重ね方をしていきたいものです。

PCAワークショップ4回目

今日は4回目のPCAワークショップの日でした。

僕がカウンセラー役で、クライアント役の方が70代の男性の方でした。

一方的に他人の話をし続ける方だったので、話を聴きながらこの方自身はどう思っているのかを感じようと必死に聴いていました。

評価としては、

「話しやすかった。聴いてもらえてる感じがした。」

「クライアント役の方がその出来事でどう感じたかを、突っ込んで聴いた方が良かった。」

というものでした。真摯に受け止めて次回また頑張りたいと思います。

すごかったのはそのあとでした。

クライアント役の方に現役カウンセラーの方々が、プライドや固定観念をぶち壊すような言葉を浴びせだしたのです。

その言葉はそれぞれとても強烈で、聞いていたクライアント役の方の心中を察するにかなりツラかったと思います。

帰り道、一番キツい言葉を浴びせていた方に聞きました。

「なぜあそこまでキツく言われたのですか?」

答えは「クライアント役の方が自分で壁を破ろうとしているのを感じたから。」でした。

カウンセリングでいう「援助」とは、相手を無条件に尊重するだけではなく、時には相手の為を思って、壁を破る手助けになるようなキツい言葉をかけるのも必要なんだなと実感しました。

衝撃的でしたが、すごく中身の濃いワークショップでした。

PCAワークショップ5回目

昨日は毎週のPCAワークショップの日でした。

昨日は僕がみんなの前で、スピーチする番でした。

スピーチの内容を考えようと頑張ったのですが、30分以上は話さないといけない決まりだったので、結局自分の過去の話になりました。

人とまともに話せない状態で、営業マンになったこと。営業現場での大変さ、上司と闘ってきた話、娘の手術…

プロフィールを考えたり、振り返ったりはしますが、なかなかそういうことを口に出す機会はありませんでした。

話している中で、改めて気付いたことがあり、自分のことをじっくり話すのも大事なことだなと実感しました。

3分とか5分の短い時間ではなく、30分以上「自分史」を話すと多くの気付きが得られると思います。

人それぞれ、生きている以上、いろんな経験をしてきているので、まわりからするとすごい歴史を持っています。

本気で話すなら1日、2日かかる人もいるでしょう。

その中に本当の自分らしさを発見できるきっかけがあると思います。

一度、今までの人生を振り返って、誰かに話してみましょう。

きっと素晴らしい気付きが得られます。

PCAワークショップ6回目

毎週のPCAワークショップに参加してきました。

今回は1人の女性の方が、「当初聞いてた内容ではない」と先生をまくし立てて、自分のやりたい方向にしようとかなり怒りを露わに話されていました。

誰も先生のやり方に反論しないことにも不満を爆発させておられました。

その方は、カウンセリングの実践練習がもっとできるものと思って参加されていました。

でも、実際はエンカウンターばかり。

カウンセラーが自分自身を知ることの大切さも分かってらっしゃる上での抗議でした。

僕としては、毎回自分自身に関する大きな気づきがあるので、不満を感じることは無かったのですが、確かにカウンセリング練習は1回しかやってません。

確かにそれを期待して来た方にとっては不満でしょう…

といろいろ思っている中で、違う感情が出てきていたことに気付きました。

「怖い」

情けないですが、単純にそう感じている自分がいました。

怒っているその女性が怖い…怖くてちゃんと話が聴けない…

ちょうど、今日は母親について、それぞれの思いを話す機会だったので、母親のことも考えながら聴いていました。

その思考の中でついに気付いたのです。

今までずっと胸につかえていた恐怖の根元に。

それは、「母親」だったのです。

気付いたときは信じられない気持ちでした。

でも、認めて受け入れて、怖いと感じたことをみんなに話しました。

小さいとき、両親は毎日夫婦喧嘩、そして僕ら兄弟にも厳しく、寝る時間、学校の支度など徹底的に教えられました。

できなかったり、逆らったりすれば、暗い部屋に閉じ込められたり怒鳴られたり。父親からも母親からも言うことを聞かないときは、「力ずく」で教育されていました。

一時期、父親に対しては復讐の気持ちを持ちましたが、母親には持ちませんでした。

でも、母親から受けた教育で、「やると決めたことはすぐにやめてはいけない」という考え方があり、小学5年生だった僕が剣道を始めてすぐやめると言い出したとき、鼻と口をふさがれて、続けると言うまで呼吸をさせてもらえませんでした。

そのせいで過呼吸がおこり、それ以降社会人になってから2回過呼吸に苦しめられました。今もストレスをうまくコントロールしてないと過呼吸になる恐れはあります。

そういう体験のせいなのか分かりませんが、僕が母に対して「怖さ」を感じているのはたしかです。

ずっと父親か前々職の上司が原因だと思っていたのが母親だったなんて…

新たな発見をさせて頂いて、とても感謝しています。

一人で考え抜いても出せない答え。でも、人とのかかわり合いの中でふと答えが出てくることは多いです。

「人とのかかわり合い」大切にしていきましょう。

カウンセリング1回目

カウンセリングを受けに行ってきました。今月から定期的に通っています。

最初はカウンセラーの方々から、「カウンセラーになるならカウンセリング受けないとダメやで」と言われてその通りに受けに行っただけでした。

「教育分析」とか言われると何か立派なことしてそう。そんな思いもありました。

でも、通い始めてからその考えは変わりました。

「何がきっかけで自分が人と話せなくなったのか?どうやって乗り越えたのか?本当に完全に乗り越えられているのか?」

もっと自分を知りたい。

今はそれだけです。

自分一人で考えても分からないことは多いと思います。

それは自分自身のことであっても同じだと思います。

昨日カウンセリングを受けて泣きそうになったときがありました。

学生時代に「みんなの輪に入れなかった」話をしたときです。

本当に悲しくて、当時こんなに悲しい思いをしてたのかなと不思議な感じになりました。

当時、人と話せない僕は友達なんているはずもなく、グループを作るとき、社会見学、修学旅行などの班作りではいつも残り者でした。

誰かが温情で拾ってくれるのか、先生が指示してどこかに入れてくれるのかをいつも待っていました。

待つときは本当につらくて、みじめで、みんなと話せない自分を責め続けていました。

本当はその場で泣きたかったのを我慢していたのだと思います。

これからもカウンセリングを受けて、自分自身ともっと向き合っていきたいと思います。

カウンセリング2回目

今日は毎週受けているカウンセリングの日でした。

前回まで受けていたカウンセリングでは、自分の話してることを理解してくれてる感じがあって良かったのですが、今回は違いました。

僕が話した

「役職がつかなくていい、昇格にも興味はない。」

という言葉に固執された感じでした。

その理由は別に諦めや自暴自棄な感情からではなく、次のステップを別の場所に見つけたからだけなのに、何故か自暴自棄になってるように思われてました。

「そうではない」と否定したつもりが伝わらず、なんか疲れました。

過去には自暴自棄になったこともありました。

でも、今はやりたいこと見つけて必死でやっています。

だから、自暴自棄にはなれないし、今は自分が大事で自分に期待してるので正反対なのに…

「何故そこに固執するの?」って感じで意味不明でした。

終わってから思ったので、次回のカウンセリングではこの不満をぶつけてみたいと思います。