対人恐怖症と関連が深い恥ずかしさの心理を掘り下げてみたいと思います。
「恥ずかしさ」とは?
人の目がある場所で何か失敗をしたり褒められたり、そういう場面を想像したりすることで湧き上がってくる感情が恥ずかしさです。
顔が赤くなる、汗をかく、ドキドキするといった身体感覚を伴います。
恥ずかしいという感情は人間だけが持つものです。
羞恥心とも呼ばれ、私たちが社会に適応するために大切な役割を果たしていると言われています。
日本の文化と恥の文化
日本人の文化は「恥の文化」と言われるのを聞いたことがあるでしょうか?
恥の文化はアメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトが、第二次世界大戦中の調査結果をもとに出版した『菊と刀』(1946年)で用いた言葉です。
欧米は個々人が持つ内面的な良心が基準となるのに対し、日本は世間の目、人の目が基準となる。
恥ずかしさは日本人にとって切っても切れない関係にあるものだと言えます。
人によって恥ずかしいと思うことは違う
人前で上手く話せなかったときに穴があれば入りたいと思うほどの恥ずかしさを感じる人もいれば、照れ笑いで済むくらいの恥ずかしさの人もいる。
インドアで週末は家でゴロゴロしていることを恥ずかしいと思って隠す人。恥ずかしげもなく平気で話す人。
パジャマ姿でコンビニに行ける人、恥ずかしくて行けない人。
京都大学出身なのに東京大学ではないからと恥ずかしく思う人、高卒で大学に行っていないことを全く気にしない人。
同じことを経験しても恥ずかしいと思うかは人によって違いますよね。
人はなぜ恥ずかしいと思うのか?
社会(集団)からの逸脱
体育の授業でダンスをしているとき、自分だけ明らかに違う動きをしてしまうと「間違った!」と思って恥ずかしくなりますよね。
集団に属していて自分だけ違うことをするのは恥ずかしさにつながるのです。
みんなが靜かにしている場所で音を出す、みんなが普通に歩いている場所で躓く、マナーを知らず違反行為をしてしまう等も同じ。
「恥の多い生涯を送ってきました。」で始まる太宰治『人間失格』の主人公である大庭葉蔵は、世間一般とは違う自分が生きているだけで恥という感覚だったと言えます。
社会への帰属意識が強くなければ、大庭葉蔵は恥の多い生涯を送らずに済んだのかもしれません。
「普通になりたい」と思うとき「普通ではない」という前提があります。自分が普通ではなくどこかおかしい気がするから普通になりたいと思うわけです。
他者からの評価
自分ではオシャレだと思っていた服装が変だと言われたとき、恥ずかしい気持ちになります。
逆に仕事でお客さんからものすごく感謝されたときは照れという形で恥ずかしさが出てくる。
人前で話すとき等の恥ずかしさは、注目している人たちが自分に対してネガティブな評価をしていると思うことから生じています。
プラスであれマイナスであれ、他人からの評価は恥ずかしさを感じることにつながるのです。
他者からの評価が自分の社会的なイメージと一致していた場合は「そうだよね」と納得するだけで恥ずかしい気持ちにはなりません。
理想と現実とのギャップ
勉強ができる自分が理想像なのにテストで低い点数を取れば恥ずかしい気持ちになります。
だから、点数を聞かれてもごまかしたり、頑なに答案用紙を見せようとしなかったりするわけです。
可愛いと思っていたのにふと窓ガラスに映った顔がブサイクだったとき、歌が上手いと思っていたのにカラオケで高音が出なかったとき等も理想と現実のギャップで感じる恥ずかしさだと言えます。
理想とは違う自分を目の当たりにし、ショックで傷付いてしまう感覚が恥ずかしさにつながっているのかもしれません。
理想の自分は親を中心とする周りの期待や世間一般の基準によって形成されやすいですが、自分が知りえた情報から勝手に作り出すこともあります。
頑固でプライドが高い性格と対人恐怖症の関連性、そして自分を変えていくためにどうすればいいかをお伝えしています。
恥ずかしさを感じやすくなる要素
自意識の過剰さ
自分に対して過度な意識が働いていると、周りが評価せずとも勝手に「こう思われたんじゃないか」等と考え、恥ずかしさを感じることがあります。
好きな人と話すときの恥ずかしさを想像していただくとわかりやすいと思います。ものすごく自分に意識が向いていますよね。
恥ずかしさは「他人から自分がどう見られているか」を意識している人ほど感じやすいのです。
過去の恥ずかしかった体験を思い出して一人で恥ずかしい気持ちになってしまう人も少なくありません。
HSPや愛着障害を抱えている人は、繊細で他人の反応を拾ってしまうことで恥ずかしさを感じる機会が多くなります。
人の目を気にしすぎてしまう他者視線恐怖症の改善方法をお伝えしています。
パーソナリティとの関連性
友人と一緒に道を歩いているときに躓いても少し恥ずかしい気持ちになるくらい。お互いに笑って流せる程度です。
しかし、一人で道を歩いていて躓いたら友人といるときに比べて強い恥ずかしさを感じます。
これは偶然の失敗と見られたか、失敗をする人と見られたかの違いであり、後者の場合はパーソナリティレベルのことになるのです。
偶然であれば自尊心は傷付かない。逆にそれが当たり前のように思われると自尊心が傷付く。
性癖や特殊な趣味嗜好について話すことに抵抗を感じるのはパーソナリティにかかわるものだからです。
親とのかかわりによって生まれる恥
理想像の押し付け
例えば、新しい習い事に不安を感じて「行きたくない」と言ったとき、親が反抗的だと解釈して「嫌なことから逃げてばかりだね」「そんなに行きたくないならやめればいい」等と言えば、子供は自分の不安な気持ちは受け止めてもらえない、不安になる自分はダメなんだと思うようになります。
子供は自分のことを恥じるようになってしまうのです。
親が理想像を子供に押し付け、その理想とかけ離れた子供の行為に失望して感情的になる。
「ビビりだね」「弱いね」「下手だね」「気にしいだね」「根性がないね」等、親が感情的になって子供を馬鹿にするような言葉を言い放つのは、羞恥心という強い感情を抱かせることでコントロールしている面があります。
規範意識
- お店の中で走ってはいけない
- 電車の中では大人しくしていないといけない
- 挨拶はしないといけない
道徳や法律等、社会のルールを守ろうとする意識(=規範意識)が強い親のもとで育つと「正しいか間違っているか」の二極化が起こりやすく、間違っていると思ったときに恥ずかしさを感じるようになります。
社会生活をしていく上でルールを守ることは大切ですが、意識が強くなりすぎるのは問題です。
言い間違ったり、わかりづらい表現をしてしまったり、些細なことで恥ずかしさを感じるのは規範意識の強さが影響している可能性があります。
親の接し方や家庭環境が子供にどれだけの影響を与えるかをご説明しています。
恥ずかしさを感じないとき
周りの目に意識が向いていない
明らかに浮いた格好をしていたとしても恥ずかしさを感じない人がいます。
- コスプレをして街中を歩いている人
- 野球観戦の帰りにユニフォームを着たまま電車に乗っている人
- アイドルのグッズを身にまとってライブ会場に向かう人
注目を集めたり、好奇の目で見られたりしやすいのですが、本人たちは全く気付いていません。
自分の世界に入り込んでいて周りの目に意識が向かない状態になっています。
別に笑われようが馬鹿にされようが気付かなければ恥ずかしさを感じることはないのです。
明確な目的がある
困っている人がいて全員素通りしている状況でも、その人を助けたい気持ちが強ければ恥ずかしい気持ちにはならないでしょう。
みんながわかっている雰囲気の中で質問するのは恥ずかしさを感じやすいですが、絶対に聞かないといけない、どうしても聞きたいという気持ちなら恥ずかしさは小さくなります。
信念を持って自分の仕事をしていて、何か批判されたとしても聞き流して恥ずかしいとは感じない。
人前で話すのが苦手だったとしても、どうしても伝えたいことがあれば恥ずかしい気持ちは消えていきます。
人は明確な目的を持って行動するとき恥ずかしさを感じなくなるのです。
自分の基準ではなく他人や世間の基準で生きる人が増えてきています。 他人基準から抜け出して自分基準で生きていくにはどうすればいいのでしょうか?
恥をかかないようにすることで抱える問題
自分を偽らないといけない
恥をかきたくないから隠す、誤魔化す、嘘をつく。
本当は友達なんていないのにいると言ったり、人見知りなところがあるのに平気なふりをしたり、傷付きやすいのに強がったりする。
自分を偽れば偽るほど自分が自分ではなくなっていく。
偽り続けて本当の自分が自分でわからなくなっている人もいます。
自分はコミュニケーションが苦手で緊張しやすくて変なところがあって…こういうことが全部言えたならどれだけ楽かわかりません。
恥をかかないために自分を偽るのはものすごくしんどいことなのです。
経験が少なくなる
恥をかきたくなければ新しいことにチャレンジしないという考えになります。
人目がある場所に行かず、自分が上手くできそうにないことを避ければ恥をかく機会は減りますからね。
チャレンジしないことで恥ずかしさという嫌な感覚だけでなく、嬉しい楽しいといった良い感覚も得ることができなくなります。
さらに、苦手なことを克服したり、やりがいや達成感を得たりする機会もなくなってしまう。
恥ずかしさを避けることによって経験から得られることが非常に少なくなるのです。
情報を得ることは大切ですが、それ以上に大切なのは実際に経験することです。なぜ経験が大事なのかをお伝えしています。
恥ずかしさの克服とは?
恥をかく場面をなるべく避けない
恥ずかしさに苦しむ人と苦しまない人の違いは、恥をかく場面を経験した数の違いだと言われています。
だから、「あえて自分から恥をかくことをやりましょう」と言う人もいますが、それは現実的に考えて不可能ですよね。
生活をしていく上で恥ずかしさを感じる場面は何かしら出てくるので、まずはなるべく避けないようにすることを心がけてみてください。
- コンビニのホットスナックが食べたいなら頼んでみる
- 一人でカフェに行ってみたいなら入ってみる
- 人気がなさそうな商品でも自分が良いと思ったなら買ってみる
- 疑問に思ったことを放置せずに聞いてみる
- やりたいと思っていた習い事の体験講座に参加してみる
今の自分にとってハードルの低いことから少しずつ取り組んでいただければ大丈夫です。
恥をかく経験を重ねていくうちに今まで特別だった恥ずかしさが当たり前の感覚になっていきます。
恥ずかしい気持ちをそのままに
恥ずかしいと感じることをしてしまったとき、周りの人たちは基本的に何もなかったかのように振る舞うと言われています。
社会学者のアーヴィング・ゴフマン(Erving Goffman)が打ちだした〈フェイス・ワーク〉という概念によると、人間は集団全体の機能が低下しないように、意識せずとも誰かの失敗をフォローするそうです。
複数人で会話しているときに誰かが変なことを言っても、別の誰かが違う話題を振って事なきを得るような場面はよくありますよね。
恥ずかしさから余計なことをしてしまい、失敗を重ねる方が周りの迷惑になります。
周りがフォローしてくれることを信じて置いておこうと心がけてみてください。
たとえ周りがフォローしてくれなかったとしても、感情は時間の経過とともに収まっていくので恥ずかしい気持ちをそのままにしておくことは有効です。
恥をかくこと=生きること
人は生きていく中で恥をかくことから逃れることはできません。
夏目漱石が「恥をかくために生まれてきた」と考えていた通り、恥をかくというのは生きている証拠です。
私はすべての人間を、毎日毎日恥を掻かくために生れてきたものだとさえ考える事もあるのだから、変な字を他ひとに送ってやるくらいの所作しょさは、あえてしようと思えば、やれないとも限らないのである。
引用元:硝子戸の中、夏目漱石、青空文庫
逆に言えば恥をかかないというのは生きていないことになります。
恥をかいたとき人は赤面したり、汗をかいたり、苦笑いを浮かべたりする。
他人から見れば格好悪い、情けないものかもしれませんが、そこには人間である以上切り離せない人間味、人間臭さがあるのです。
恥ずかしさを克服するというのは、恥ずかしさを感じなくなるのではなく、受け入れて上手く付き合っていけるようになることだと言えます。